「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』⑥

群馬の榛名山の麓から発した、戦後日本を代表する箏曲の名門・宮下家。

「音楽は時代時代の精神で創る。博物館へ持って行くような音楽はやらない」
その伸の言葉が示しているように、江戸期の古典曲が現代でも支配的な邦楽界にあって、「宮下」の生みだす音楽は古い因襲にとらわれることなく自由な創造性に溢れている。それは間違いなく戦中から戦後にかけての時代の精神が箏を通して具象化したものである。宮下の門下では「六段」や「みだれ」などの古典曲も勿論教授されるが、中心はあくまで宮下秀冽や伸の創作曲である。

箏を弾くときに「爪」を指にはめるわけだが、その形状によって先端が鋭角的フォルムであるものを丸爪、四角いものを角爪と呼ぶ。箏曲界は丸爪を山田流、角爪を生田流と大まかに二つに分けて認識される。もともとは四角い形状であったものが、江戸期において分化して丸爪が使われるようになった。丸爪は長唄など、唄の伴奏に用いられることが多かった。角爪は角の部分を絃に当てるため、音をだす動作の動きが小さく、物理的に技巧的な演奏がしやすい。一方丸爪は、絃に対して比較的深く爪をあてて演奏者するため、一音一音の爪音に深みを持たせることができる。

この分類で言えば、宮下は山田流箏曲、ということになる。しかし宮下の音楽は、とりたてて唄が中心である作品は無く、現代的な技巧性に富む楽曲でありながら、一音一音の表現が深く、純粋な器楽曲として楽しむことが出来る。

私の話になるが、宮下伸の作品に本格的に取り組むようになった頃、要求される技巧を身につけるのが最初のうち本当に至難であった。学生時代に故郷を離れていた折に、宮城道雄の曲が弾いてみたくて、アルバイトしていた地元の箏屋さんに紹介してもらった男性演奏家のところへ通ったことがあって角爪も持っていたから、角爪で宮下曲を試しに弾いてみると、泣けそうな程容易に弾けた。しかしながら、角爪に習熟していないせいか、なかなか音に深みが出なかった。角爪と丸爪の違いとは、つまりそのような感じである。

宮下の門下には、宮下作品に魅力を感じて集った生田流の弟子もおり、爪の丸い四角いによる分け隔ての無いリベラルな雰囲気があった。

宮下のユニークなのは、現代的な感性によって生み出される音楽と、演奏におけるパフォーマンスが両立されていることである。それが父と息子、二代にわたって発揮された。つまり自ら創作し、それを卓越した能力で演奏する、というところが宮下音楽の真骨頂であったわけだ。

さて、父秀冽は箏曲界において宮城道雄に次ぐ存在であったし、息子の伸は並外れて天才的な演奏家であり、次々に新作を生みだす新進気鋭の作曲家でもあった。父子といえども才能を持つ同士、張り合うということもあり得るだろう。

また三十絃のパフォーマンスは伸独特のものとも言え、この三十絃に関する引き合いも、伸のもとには多かった。例えば宮下伸作品である三十絃独奏曲『越天楽今様変奏』はNHKの委嘱である。

リベラルな宮下一門も、角度を変えて俯瞰すれば、伸からみて家元の父秀冽、母、そして妹たづ子、兄妹のそれぞれの連れ合い、各々の利害関係が複雑に絡んでいたのかもしれない。

結果的に、親子や兄妹間の断絶は修復不能なまでに大きくなった。

「自分の家族はまもらないとならない」
伸は、妻子を連れて文字通り、着の身着のまま「実家」を飛び出すことを決意した。
妻子の手を引いて家を去るその手元には、楽器すら無かったのである。

 

(『時代時代の精神がこの国をつくる』⑦へ続く)

「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』⑤

伸は若い頃から作曲をしているが、父秀冽とはまた作風が異なる。
古典に縛られない自由闊達さは同様であるが、重厚な秀冽曲の味わい対して、伸の作品はより一音一音の爪音にこだわったシンプルでピュアな印象を受ける。

また徹底的に磨き上げられた伸の芸は、正確無比かつ技巧性に溢れ、その音色も表現が深い。十三絃は勿論であるが、父秀冽の考案により創られた三十絃を自由自在に弾く能力は凄まじいの一言に尽きる。三十絃は秀冽によって考案されてもほとんど使われず、ながらく宮下家に「吊して」あったものだったが、伸の類い希なる才能によって息を吹き込まれ、育て上げられたと言えるだろう。十三絃が長さ一・八メートルに幅が三十センチ程度なのに対して、三十絃は長さ二・三メートルを超え幅が六十センチ強という、現用されるもので世界最大の箏である。数字だけ眺めると感覚的に分かりにくいが、演奏しようとその前に座ってみると途方もない大きさに感じる。一番遠い低音の絃には腰を浮かせ前のめりにならないと爪が届かない。

ビクターから収録時リミッターをカットして原盤にダイレクトカッティングすることによって、極限まで原音を追求したアルバム『三十絃』がリリースされている。津軽三味線の高橋裕次郎が競演するインプロビセーション(即興)によるセッションもあり、数百万するというカッティング装置を何度も飛ばしたという、演奏者のみならずレコーディングスタッフも一発真剣勝負という、熱のこもったアルバムだった。こうした「挑戦」も邦楽器で行われる、非常に良い時代に恵まれてもいたのである。

ところで、伸が芸大を出て間もなくから高い評価をえていく中、順風満帆にみえた宮下家であったが、跡取り息子である伸が活躍すればするほど、実は親子間の亀裂が深まっていった。家元・秀冽の頭越しに、作曲や演奏の依頼が、若先生である伸のもとへ入るようになる。
「おふくろが楽譜を隠してしまうんだよ」
依頼が伸へ届かないことがしばしば起こるようになったのである。

「NHKも若い演奏家を出したいんだけど、本人に依頼しようとしてもその師匠の年寄りが出てきてしまう。若い人が育たない。」
保守的な芸事における家元制度の中で、伸の考え方はリベラルなのかもしれない。

「終戦直後の高崎でオヤジの目になって稽古場まで手を引いて、荒んだ世相のなか、めくらだからと投げられた石から、幼いながらも体を張ってオヤジを庇った。そんなオヤジから猜疑心をもたれたことは悲しい」
伸は弟子にあたる女性と結婚し、長男をもうけていた。妹・たづ子には弁護士の夫がいた。伸の妻は宮下宗家の中において、姑や小姑に挟まれ辛い立場にあったことは想像にかたくない。

そしてついに、伸に対して、父秀冽の意を受けた妹たづ子から「離婚して宮下家を継ぐのか、出ていくのか」突きつけられる事態となったのである。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』⑥へ続く)

「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』④

東京で活動する宮下秀冽は、伸と妹たづ子の父親でもあった。伸は幼少から父・秀冽の稽古の介助をしながら箏曲の手ほどきを受け、ピアノ等西洋音楽の素養も身に付ける。特にフルートはN響の奏者に師事するほどの英才教育ぶりであった。そんな伸であったから、中学時代からのブラスバンドでは、あらゆる楽器を弾きこなした。そして二人とも東京芸術大学へ進学する。伸もたづ子も安宅賞を受賞する。芸大の後、伸もたづ子もそれぞれNHK邦楽者育成会を首席で修了し、「NHK今年のホープ」に選ばれる。さらに伸は育成会の専科生としてさらに研鑽を積むこととなる。

伸の芸大在学中は山田流箏曲の第一人者であった中能島欣一に師事した。中能島欣一の『三つの断章』という曲がある。中能島の若い頃の作品だが、大変に技巧的で難易度の高い曲で弾きこなすのが難しい。どんなに優れた演奏家も、身体の衰えからは逃れられない。中能島は、この曲の演奏を伸に代理で行わせたという。伸は、厳格さで知られる中能島の認める数少ない弟子だったのである。

さらに芸大在学中では日本を代表する民族音楽の研究者であった小泉文夫の薫陶を受けた。後の世界ツアーやシタール奏者・ラビシャンカルとの競演など各国の民族音楽との関わりは小泉が企図した部分が大きかったようである。また、「箏はワールドミュージックである」と述べる伸の音楽の捉え方・思想に強い影響与えたのも小泉であったと考えられる。伸は学生運動にも芸大の中心人物として参加していた。学友会の代表として日比谷公園に籠城した。「あの時だけは稽古サボった」と本人は回顧する。小泉文夫はまたこうした自由奔放な学生達の良き理解者だった。

伸の卓越した演奏や作曲の能力は具体的なプロジェクトや評価に結実していく。芸大を卒業してあまり間をおかずして第一回芸術選奨文部大臣新人賞受賞したのを皮きりに、「宮下伸 箏・三十弦リサイタル」の演奏、作曲により文部大臣より芸術祭大賞を受賞する。また若い頃から政府の依頼や招待によって日本各地や世界各国で公演する。ヴァイオリニストのヴィーツラフ・フデチェック、シタールのラヴィ・シャンカル、フルートのジェームス・ゴールウェイらと次々に共演、それぞれビクター、ポリドール、イギリスRCAによってレコード化された。作曲家として委嘱作品も多く、NHK委嘱「響の宴」の作曲では芸術祭賞文部大臣賞を受賞している。

一方、父秀冽の作品集も伸やたづ子達の演奏によって次々とレコード化された。宮下家は名実ともに、日本屈指の箏曲の名門となっていったのである。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』⑤へ続く)

置時計

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群馬の音楽家を志す者にとって、いわゆる登龍門として、「群馬新人演奏会」と「高崎新人演奏会」とがあり、出演者のオーディションが実施される。なお、邦楽部門があるのは「高崎」のみであった。

高崎は小澤征爾ゆかりの群馬交響楽団の発祥地であることから分かるように、民間レベルでの音楽文化活動の盛んな土地柄である。当地の新人演奏会に、日本中探しても(おそらく)滅多にない邦楽部門があるところなんか、さすが、としかいいようがない。

主催の高崎市民音楽連盟は、そんな高崎を音楽の街となさしめた原動力とも言える訳だが、その原動力の原点ともいう人物がいる。もう故人となられた斉藤民さんだ。生涯を音楽に捧げたこの女性を知らない音楽人は群馬に存在しない、といっても過言ではない。

戦後の群馬の、高崎の復興は音楽と共にあった。音楽は平和を象徴している。

僕はこの「高崎新人」に出演した。記念品としてもらった置時計を、斉藤民さんに手渡していただいたことは、音楽に関わる群馬県人としての、僕のささやかな誇りである。

ちょっと懐かしい…

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「駆け出し」の頃(今でも大して変わらないとも言えるが)、友人の勧めるままに、よく知らない団体のコンクールやオーディションを受けたりした。何だかんだで料金を取られたが、それなりに入賞したりして賞金で元手は確保したように思う。都内のいろんなホールで演奏する機会ともなって、結構面白かった。

「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』③

第二次ベビーブーマーである私の幼少時代は、高度経済成長が一段落し、一億総中流時代、かつては憧れであったピアノ教室が隅々まで普及し、明治以来の音楽の西洋化が一般大衆において完成されたかのような状況であった。楽器店でもピアノが飛ぶように売れていたのである。実はその一方、邦楽人口も多かった。特に箏は格式の高い認識が世の中にはあったから、華道とともに、女性の価値を高めるたしなみ、との認識もまだ強い時代とも言えた。私の両親は「人とは変わったこと」をさせようと、たまたま近隣に来ていた箏曲の大師範であり、宮下秀冽の直弟子であった早河秀桂に教授を請う運びとなったのである。「変わったこと」が、我が国の伝統音楽であったことに、日本における「邦楽」の地位が明らかである。

小学生男子の私にとって「お琴の教室」はあまり楽しいものとは言えなかった。週一回、夕方に弟や妹、近所の幼なじみたちと共に近所の教室へ通った。箏をやっている小学生など珍しがられたが、仲間が少ないということでもあり、そうしたマイノリティーであることは親が考えるほど愉快なものではなかったのである。教室は私の家のある町と、隣の高崎市とにあって、弟子は大人から子どもまで50人以上あり、盛況であった。定期的に早河秀桂一門の演奏会があって、たいへんに朧気な記憶ではあるが、私の先生の師匠である家元の宮下秀冽が、毎回いらしていたのであった。

宮下秀冽は現在高崎市となっている倉渕村にある、造り酒屋に生まれた。旧倉渕村は、カルデラを構成し榛名湖を火口湖に持つ、榛名山の西側に位置し、高崎市内からは榛名山を望ながら果樹園の広がる裾野をなだらかに登り、山あいを左方奥へ入り込んだところにある。倉渕は四季折々の表情豊かで、酒造りに適した銘水の湧く、豊穣な土地である。

秀冽は高崎中学を出るが成人する前に失明し、箏曲の道に入った。東京に住まわっていたが戦況悪化により高崎市へ疎開する。戦後の混乱期の中も、まだ幼い子息の伸に手を引かせ稽古場へ弟子たちを教えに通った。殺伐とした世相の折、「めくら」の秀冽に石を投げる者もいて、伸は身体を張って父を庇ったという。この高崎時代に、伸とともに私の幼い頃からの先生である早河秀桂は秀冽に師事したのであった。

秀冽は斬新な作曲や演奏のスタイル、実力が宮城道雄に次ぐ箏曲家として認められていく。いつか私の先生であった秀桂が秀冽の弟子であった娘時代の話をしてくれたが、タキシード姿で、斬新な自作を奏でる秀冽の演奏スタイルは誠に鮮烈であったという。

時代は、戦後の経済成長を経て、日本のアイデンティティを希求していた。江戸時代から続く古典曲も盛んに演奏されていたが、現代という時代の精神には響かない。やはり新たな創作が求められた。戦前期『春の海』で一世を風靡した宮城道雄の後を次ぐ箏曲家として、ビクターが全集を制作したことに明らかであるが、宮下秀冽は箏曲界期待の第一人者であったのである。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』④へ続く)

「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』②

会津盆地から新潟方面へ深く山を分け入ったところに会津桐の産地がある。夏は緑濃く、冬場は雪が深い。近くを走る只見線の列車に揺られていると、車窓から流れ込んでくる冷たい山の精気に、夏場でも身の引き締まる思いがする。そんな深山幽谷に抱かれて長い年月をかけて育った桐は、切り出された後、何年もかけて乾燥させられる。乾燥の過程で起こる反りなど、楽器になってから狂いの生じないようにするためだ。素材は丁寧に整形されたあと、コテを当てて焼きをいれ、磨くことによって木目の浮かび上がる、見事な黒光りをはなつようになる。

演奏でステージに上ると、照明により箏はステージから浮かび上がるように鈍く光っていて、その上に絃が光の筋となって輝いているように見える。木目が浮かび上がる様は鱗の様である。

絃はもともと、絹糸をよりあわせてニカワ等で固めた絹絃が使われていたが、ナイロンと同じ樹脂製のテトロン絃というものが出ると、切れにくく強度に勝るこちらにとって変わられた。絹はやわらかな音色で、幾重にも重なってたなびいていくような豊かな余韻を響かせる。テトロン絃は張力を強くとれる分、力強い澄んだ音色を出す。テトロン絃は、ボリュームと高いピッチが要求される現代的な楽曲にマッチしていると言えるだろう。

多くの場合、筐体の木目による模様の入りようで箏の工芸品としての価値が決まって来る。当然のことながら物理的な「音」は材質と構造で決まるわけであるが、同じ質感の音色を奏でる箏でも、十倍も二十倍も価格が変わることがある。アップライト・ピアノとフルコンサート・ピアノほどの価格の開きがあったとしても、楽器としての素質は往々にしてほとんど変わるものではないのである。また高価な箏は象牙が随所にあつらわれることが多い。たしかに、象牙のようなガラス質の方が音をよく響かせる。しかし絃にかけて調弦に用いる柱(じ)を除けば、象牙を使っても使わなくても大した違いはないと言える。

ならばなぜ、箏の工芸品的価値が、楽器本来の性能とは別個に評価されうるのか。ひとつには、箏は「龍」の化身であるという、中国由来の認識があるからだろうか。力強い木目は、龍の存在をより感じさせる。長さが三メートル近くにもなる三十絃ともなれば巨龍とも言え、その咆哮をわれわれは耳にしている訳である。楽器というモノを超えた魂が、箏には宿っている。子ども時分、寝かせて置いてある箏の向こう側へ行こうと横着して跨ごうとしたら、当然のことながらひどく叱られたものである。

我々の文化はそれほど「龍」を有り難がる訳ではないが、魂あるものとして楽器に対するということは大切な心得と言える。私が非常勤講師として邦楽実習を実施した小学校の授業で、「龍」のお話しを児童にしたら、後日送ってくれた授業の感想とともに、龍の上に箏を弾く私のイラストを描き添えてくれた子がいた。受け止める感性の素直さと、受け止めたものをひとつの形として表現して伝えてくれたことが嬉しかった。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』③へ続く)

「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』①

箏の琴ハジメ

私は、幼少の頃から日本の伝統芸術である箏曲を学ぶ機会をもった。

さて、箏曲(そうきょく)とはこの音楽ジャンルを示す言葉であるが、楽器の名称としては「箏」と書いてコトと読む。一般的には「琴」の字もあてられるが、厳密にいうとコトというのは、大和言葉において弦楽器を表す比較的広範な概念であり、筐体に絃を張り、柱(じ)と呼ばれるブリッジを絃に立ててチューニングし演奏するものを特に「箏」と称するのである。

我が国において、長方形の板に絃を張った琴類は古来より存在したが、箏の直接の原形は中国にある。飛鳥時代に唐楽として伝来し、雅楽として朝廷において政に供され、また貴族達にもたしなみとして親しまれた。その後僧侶の修行に用いられたりしながら改良を経て、今の形になったのは江戸初期の頃である。音楽としての理論も整理され、以降、「六段の調べ」など現代へ伝わる楽曲も数多く作られるようになる。雅楽箏に対して俗箏として、三味線などと共に民衆の芸能としてに広く親しまれるようになったのである。

日本の箏でよく用いられるものは十三本の絃が張られ、右手の親指・人指指・中指に「爪」と呼ぶピックをつけて弾く。現代において演奏に供されるのはこの十三絃のほか明治以降に作られた十七絃、二十五絃などがあり、最大のものは宮下伸の父君である宮下秀冽が考案し、宮下伸により日の目を見た三十絃である。

箏の素材は古くからタンスにも用いられる桐である。桐は木材の中では比較的やわらかく軽い材質で、絃の響きを振動させるのに適していたのだろう。高崎市で長年箏を造ってきた熊嶋氏によれば、桐には無数の管が通っており、その管を通って響きが出るのだという。埃でそれが詰まることの無いようにと、私の楽器を磨きながら教えてくれた。また産地は会津のものが最高であるという。冬の厳しさが桐をより緻密な材質へと鍛え上げる。安価な楽器に使われるカナダなどからの輸入材と比べると、桐としては重い会津桐の箏は、最初のうちはなかなか「鳴らない」のだが、弾き込むにしたがって奥から湧き出るような、豊かな響きを奏でるようになる。

こんな事があった。九州の久留米で毎年行われている全国箏曲コンクールで、私がようやく入賞した折に、審査員から「もっと響く箏で演奏させたかった」とコメントをいただいた。すなわち、私自身がまだ未熟で、自分自身の楽器を鳴らしきっていなかった、ということなのでもあろう。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』②へ続く)