「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』②

会津盆地から新潟方面へ深く山を分け入ったところに会津桐の産地がある。夏は緑濃く、冬場は雪が深い。近くを走る只見線の列車に揺られていると、車窓から流れ込んでくる冷たい山の精気に、夏場でも身の引き締まる思いがする。そんな深山幽谷に抱かれて長い年月をかけて育った桐は、切り出された後、何年もかけて乾燥させられる。乾燥の過程で起こる反りなど、楽器になってから狂いの生じないようにするためだ。素材は丁寧に整形されたあと、コテを当てて焼きをいれ、磨くことによって木目の浮かび上がる、見事な黒光りをはなつようになる。

演奏でステージに上ると、照明により箏はステージから浮かび上がるように鈍く光っていて、その上に絃が光の筋となって輝いているように見える。木目が浮かび上がる様は鱗の様である。

絃はもともと、絹糸をよりあわせてニカワ等で固めた絹絃が使われていたが、ナイロンと同じ樹脂製のテトロン絃というものが出ると、切れにくく強度に勝るこちらにとって変わられた。絹はやわらかな音色で、幾重にも重なってたなびいていくような豊かな余韻を響かせる。テトロン絃は張力を強くとれる分、力強い澄んだ音色を出す。テトロン絃は、ボリュームと高いピッチが要求される現代的な楽曲にマッチしていると言えるだろう。

多くの場合、筐体の木目による模様の入りようで箏の工芸品としての価値が決まって来る。当然のことながら物理的な「音」は材質と構造で決まるわけであるが、同じ質感の音色を奏でる箏でも、十倍も二十倍も価格が変わることがある。アップライト・ピアノとフルコンサート・ピアノほどの価格の開きがあったとしても、楽器としての素質は往々にしてほとんど変わるものではないのである。また高価な箏は象牙が随所にあつらわれることが多い。たしかに、象牙のようなガラス質の方が音をよく響かせる。しかし絃にかけて調弦に用いる柱(じ)を除けば、象牙を使っても使わなくても大した違いはないと言える。

ならばなぜ、箏の工芸品的価値が、楽器本来の性能とは別個に評価されうるのか。ひとつには、箏は「龍」の化身であるという、中国由来の認識があるからだろうか。力強い木目は、龍の存在をより感じさせる。長さが三メートル近くにもなる三十絃ともなれば巨龍とも言え、その咆哮をわれわれは耳にしている訳である。楽器というモノを超えた魂が、箏には宿っている。子ども時分、寝かせて置いてある箏の向こう側へ行こうと横着して跨ごうとしたら、当然のことながらひどく叱られたものである。

我々の文化はそれほど「龍」を有り難がる訳ではないが、魂あるものとして楽器に対するということは大切な心得と言える。私が非常勤講師として邦楽実習を実施した小学校の授業で、「龍」のお話しを児童にしたら、後日送ってくれた授業の感想とともに、龍の上に箏を弾く私のイラストを描き添えてくれた子がいた。受け止める感性の素直さと、受け止めたものをひとつの形として表現して伝えてくれたことが嬉しかった。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』③へ続く)

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