「宮下伸」学・1 『時代時代の精神がこの国をつくる』③

第二次ベビーブーマーである私の幼少時代は、高度経済成長が一段落し、一億総中流時代、かつては憧れであったピアノ教室が隅々まで普及し、明治以来の音楽の西洋化が一般大衆において完成されたかのような状況であった。楽器店でもピアノが飛ぶように売れていたのである。実はその一方、邦楽人口も多かった。特に箏は格式の高い認識が世の中にはあったから、華道とともに、女性の価値を高めるたしなみ、との認識もまだ強い時代とも言えた。私の両親は「人とは変わったこと」をさせようと、たまたま近隣に来ていた箏曲の大師範であり、宮下秀冽の直弟子であった早河秀桂に教授を請う運びとなったのである。「変わったこと」が、我が国の伝統音楽であったことに、日本における「邦楽」の地位が明らかである。

小学生男子の私にとって「お琴の教室」はあまり楽しいものとは言えなかった。週一回、夕方に弟や妹、近所の幼なじみたちと共に近所の教室へ通った。箏をやっている小学生など珍しがられたが、仲間が少ないということでもあり、そうしたマイノリティーであることは親が考えるほど愉快なものではなかったのである。教室は私の家のある町と、隣の高崎市とにあって、弟子は大人から子どもまで50人以上あり、盛況であった。定期的に早河秀桂一門の演奏会があって、たいへんに朧気な記憶ではあるが、私の先生の師匠である家元の宮下秀冽が、毎回いらしていたのであった。

宮下秀冽は現在高崎市となっている倉渕村にある、造り酒屋に生まれた。旧倉渕村は、カルデラを構成し榛名湖を火口湖に持つ、榛名山の西側に位置し、高崎市内からは榛名山を望ながら果樹園の広がる裾野をなだらかに登り、山あいを左方奥へ入り込んだところにある。倉渕は四季折々の表情豊かで、酒造りに適した銘水の湧く、豊穣な土地である。

秀冽は高崎中学を出るが成人する前に失明し、箏曲の道に入った。東京に住まわっていたが戦況悪化により高崎市へ疎開する。戦後の混乱期の中も、まだ幼い子息の伸に手を引かせ稽古場へ弟子たちを教えに通った。殺伐とした世相の折、「めくら」の秀冽に石を投げる者もいて、伸は身体を張って父を庇ったという。この高崎時代に、伸とともに私の幼い頃からの先生である早河秀桂は秀冽に師事したのであった。

秀冽は斬新な作曲や演奏のスタイル、実力が宮城道雄に次ぐ箏曲家として認められていく。いつか私の先生であった秀桂が秀冽の弟子であった娘時代の話をしてくれたが、タキシード姿で、斬新な自作を奏でる秀冽の演奏スタイルは誠に鮮烈であったという。

時代は、戦後の経済成長を経て、日本のアイデンティティを希求していた。江戸時代から続く古典曲も盛んに演奏されていたが、現代という時代の精神には響かない。やはり新たな創作が求められた。戦前期『春の海』で一世を風靡した宮城道雄の後を次ぐ箏曲家として、ビクターが全集を制作したことに明らかであるが、宮下秀冽は箏曲界期待の第一人者であったのである。

(『時代時代の精神がこの国をつくる』④へ続く)

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